美しいさみしさの奥にあるグロテスクな本音と向き合う

人間が誰しもが抱く感情である「さみしい」。しかし、この便利な言葉に怠けてしまってないだろうか。覚悟を持って向き合えば、本当に望んでいるものの正体が見える、最善のときかもしれない。

寂しくなくなったのは一人になったから

手からいろいろなものを出すドレス姿の手品師のイラスト by Flash Bros

 矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、3年前に離婚してからというもの、全然寂しさを感じなくなった。
それは別に、寂しさの回路がショートした、みたいな絶望的な理由ではなくて、本当に、離婚したら寂しくなくなったのだ。
だって、結婚していたときなんて、一年のうちの4分の3くらいは寂しかった。一つ屋根の下に住んでいるはずの家族が、なぜだかほとんど家にいないのだから。

 初めのうちは私も遅くまで起きて、夫の帰りを健気に待ったりもしていた。
代わり映えしないSNSのタイムラインを延々とリロードし続けたり、漫画アプリに課金し続けたり、だらだらと時間をやり過ごす合間に「まだ帰ってこないの?」なんてメールを送ってみる。
一向に返事がないことにイラっとして、今度は少し悲しい口調でメールを送ってみる。それでもやっぱり返事がないので、今度はちょっと、むっとした感じでメールする。

 一人、寂しさを持て余す時間に、家のリビングから繰り出すあの手この手は、自分では全て正当性のあるものだったけど、客観的に見れば情緒不安定な、“触るなキケン”な人だっただろう。

 そのうち、珍しく夫が家にいるときだって、いないときと全く何も変わらずさみしい、ということに気がついた。
家にいないからさみしいと思っていたのに、一緒にいたってさみしいのだ。結婚生活の終盤には、とにかくそんな粘着質なさみしさが、一度手に付いた納豆の糸みたいに、何をやっても、どこにいっても、しつこくまとわりついてきた。

 そんな期間が結構長く続いたので、たかだか離婚ごときでは逃げきれないと腹をくくっていたけれど、意に反して、あのときほどのさみしさには、離婚してから一切お目にかかることがなくなったのだ。

 このことを考えてみると、少なくとも私にとってのさみしさとは、本来埋まっているべき隣の席が埋まっていないこと、ぽっかりと空いていること。そのことへの、耐え難い空虚さなのだった。
離婚して、一人になることを選んだ今の私の隣には、そもそも誰かのための椅子なんてない。

 だからもう、あのときのように空虚にならない、さみしくないのだ。