弱音を共有できるかもしれない期待

かつて妻帯者の男性が、もし仮に自分が浮気をするとしたら、相手は真木よう子みたいな雰囲気の場末のスナックのママがいいと話していた。
また別のとき、別の友人男性は、お気に入りになるキャバ嬢はなぜか決まって地方出身者だと語っていた。2人の友人が、架空の恋愛、あるいは疑似恋愛に求めるもの、私にも何となく分かる。

10年以上前、地元福岡から上京して、初めて渋谷の街を訪れたとき、あまりの人の多さに、ナチュラルに「今日はお祭りか」と思った。何か、普通じゃないことが起きているとしか思えないほどの賑わい。そんな中を、人々は決してぶつかることなく、器用に、早足で歩く。

これだけ多くの人がいて、多くの建物が建っていて、可能性は無限大のように思えるけれど、実際にはその逆で、会いたい人がいなければ誰にも会えないし、目的地がしっかり定まっていなければ結局どこに行くこともできない。だからせっせと頑張る。スケジュール帳に、ぎっしり予定を詰め込む。頑張る毎日には張りがあるし、決して辛いことばかりじゃない。だけど、やっぱりたまにふと疲れてしまう。キラキラし続けてないと躓きかねない東京で、危うく干からびそうになる。

そんなとき、たどたどしい日本語で一生懸命伝えてくれる中国人のお兄ちゃんや、場末のスナックのママや、地方出身のキャバ嬢は、ほんの少し腰を下ろして休憩するための、心地よい日陰を作ってくれる。「なんだかちょっと疲れちゃった」って打ち明ければ、そうだよねって、同じテンションで返してくれる……かも。そんな期待を抱かせてくれる。実際、本当のところなんてわからない。「ぐだぐだ言ってないで働けよバーカ」って一笑に付されて終わるかもしれないし、実は誰より壮大な野心を持って努力してるレッツポジティブな人かもしれない。

でも、そんなことは確かめないから関係ない。ただ、分かり合える“かも”、っていう淡い期待だけで、何だか少し優しい気持ちになれるし、元気になれるというものなのだ。仮にもしスケジュール帳に明日の予定が何もなくても、明後日も明々後日も空欄でも、目的のない自分が許容される世界がある、そんな気になれる。だから、疲れた心に効く、優しい期待を買いに行く。