私の90年代、あなたの90年代

我々アラサーが小学生や中学生時代を過ごした90年代。一般的に考えるならば、この時代の1つのターニングポイントとなったのが、ちょうど真ん中の95年だったといっていいと思います。阪神・淡路大震災が起きた年であり、地下鉄サリン事件があった年だからです。そこから世間は一気に世紀末のムードを漂わせ、1999年にはノストラダムスの大予言のとおり、世界が終末を迎えると信じていた人もいましたよね。

90年代にヒットした曲を聴くと、総じてなんだか呑気で平和そうな印象を受けるのですが、もしかしたらせめて歌謡曲だけでも明るく振る舞おうという反動が働いていたのかもしれません。もちろん、当時の私たちはそんな世相など知る由もなかったわけですが、結局世界は終末など迎えずに、日常はかくも強固に続いています。

そんな90年代に一世を風靡したヒットメドレーを聴いたとき、あなたのなかに蘇るのは、楽しかった記憶でしょうか、切ない記憶でしょうか、それとも私のように、憂鬱と絶望の記憶でしょうか。
プルーストの『失われた時を求めて』のように、紅茶に浸したマドレーヌが記憶を呼び起こすのではなく、90年代ヒットメドレーによって記憶が喚起されるあたりがなんともダサいですが、これらの曲から思い出されるのは、何にもコーティングされていなかった頃の「剥き出し」の自分である、ということも同時に私は考えたのです。

大学生くらいのときから、我々は多かれ少なかれ「自分」という1人のタレントのマネージャーとして、プロデューサーとして、外に露出する部分としない部分を上手く切り分けするようになったと思います。だけど小学生や中学生のときは、まだマネージャーもプロデューサーもおらず、タレントが1人で何の戦略も持たないまま歌ったり踊ったりしていた、とでもいえばいいんですかね。

あの頃の歌謡曲ってやつは、なんともいい難いこそばゆい感覚を我々にもたらします。その理由は、時代や流行のズレから来ているというのもあるのでしょうけど、見せる自分・見せない自分を切り分けできていなかった頃の、剥き出しの自分を想起させるからなのではないか、と私は深夜に分析してしまったのです。

90年代ヒットメドレーを聴いたとき、あなたは何を思うでしょうか?懐かしさかトラウマか、世相か時代の流行か――仕事や恋愛などに行き詰ったときに聴いてみると、「剥き出し」だったあの頃が思い起こされることにより、何かいい打開策が見つかるかもしれません。

Text/チェコ好き

※2015年12月24日に「SOLO」で掲載しました