他人からのやっかみを回避するための「知恵」

限界集落で何が起きていたのか。詳細を知りたい人はぜひ本を読んでもらいたいのだが、この事件、私は自分のいるコミュニティとまったく無縁の世界だとは思わなかった。令和だろうが、首都圏暮らしだろうが、世界中の人と繋がれるSNSがあろうが、人間の本質ってどこにいてもそこまで変わらない。ものの言い方一つで相手の不興を買ったり、ちょっとしたことで嫉妬されたり、うわさ話のネタにされたりする。犯人が集落で孤立した最大の要因は「郷に入っては郷に従え」の原則をあまりにも無視し礼儀知らずだったことだろうが、おそらく都会帰りを鼻にかけていたところも、住民たちからよく思われていなかったのだろう。

そんな『つけびの村』を読んで私は、子供を汚い名前で呼んだり、あえてブサイクに見えるメイクを施したりする、世界中の至るところにかつてあった(今でも一部は残っている)あの慣習を思い出す。こういう慣習ってきっと、流動性のないコミュニティの中で、他人からのやっかみを回避するための「知恵」だったんだろうと思う。現在ではあまりいい印象を持たれない「愚妻」とか「愚息」とかっていう身内の呼び方も、もともとは、うちの身内はたいしたことありません、あなたに嫉妬されるようなものじゃありません、だから放っておいてね、いじめないでね、というメッセージだったのではないか。

「素敵なものは素敵だって大声で言っていこうよ!」という今の時代のポジティブなムードは決して悪いものではないけれど、ちょっとだけヒヤヒヤしてしまうのは、かつて世界の至るところにあったらしい慣習のことを思い出したり、 『つけびの村』 を読んで呆然としてしまったりするからである。

「あの人は幸せそうだ」と思われておいたほうが生きやすいのか、「あの人はたいしたことないから放っておこう」と思われておいたほうが生きやすいのか、私は今のところ後者に傾いているんだけど……あなたはどっちだろう? 

『つけびの村』 を読んで、そんなことも考えてみると面白いかもしれない。

Text/チェコ好き(和田真里奈)