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  • 2012.07.25

第7回:『高校教師』が描いた“禁断の純愛”は今も有効か

教師と生徒のイケナイ恋愛にみんなが熱狂した

By MJTR
©By MJTR

 みんな、どう? 最近、禁断の恋に落ちたりしてる?

 こんにちは、禁断どころか、無断で愛してもらっても一向に構わない福田です。
さて、今週も往年の恋愛ドラマをあえて見直し、勝手に深読みしていきましょう。

 今回のテーマは、教師と生徒の恋愛、同性愛、レイプ、近親相姦など、当時タブーとされていた過激な題材を扱って話題を呼んだ、野島伸司脚本のドラマ『高校教師』(1993年)です。

 このドラマは、大学院の助手をやめ、不本意ながら女子校の教師になった羽村隆夫(真田広之)が、女子高生・二宮繭(桜井幸子)との道ならぬ愛に目覚めていく禁断のラブストーリー。

 最初は平凡な安定を求めるモラリストだった羽村。
ところが、婚約者の浮気を知り、研究室への復帰の道も閉ざされたうえ、教え子である繭と一線を超えてしまったことで、運命の歯車が狂いだします。

 社会的地位から転落し、平穏な日常を失った彼は、やがてモラルを捨てた“本当の自分”をむき出しにして、“繭との純愛”に走ります。
何もかも失った羽村に残されたのは、それでも自分を受け止めてくれた繭だけだったからです。

 社会生活から完全にドロップアウトした2人は、列車で逃避行。
お互いの小指を赤い糸で結んで寄り添いあうラストシーンは、眠っているのか、心中なのか、はたまた自殺した羽村の幻想なのか……という解釈をめぐって大論争を巻き起こしました。

“本当の自分”とか言っちゃう中二病の羽村

 過剰にドラマティックかつポエミーなセリフで知られる野島伸司ドラマですが、この作品も例外ではありません。
第3話には、本作のテーマを象徴する以下のような2人のやりとりがあります。

羽村「人間には3つの顔がある。ひとつは自分の知る自分、ふたつめは他人が知る自分、もうひとつは、本当の自分」
繭「本当の自分はどうしたらわかるの?」
羽村「さぁ……。きっと、自分が何もかも失ったときにわかるのかも」
繭「じゃあ、知らないほうが幸せね」
羽村「そうかもしれないな」


 そもそも、“本当の自分”なんてことを言い出している時点で、羽村はいかにも90年代っぽい自意識過剰な中二病的感性の持ち主ですが、さらに身も蓋もないことをあえて言っちゃいましょう。

 要するにこの作品、“常識的でつまらない男”だった羽村が、“打算を知らない無垢な少女との純愛”という処女厨的な恋愛観にハマッちゃう、という話ですよね?
その結果、モラルも社会性も捨てた彼は、“非常識な愛の暴走機関車”になってしまうわけです。

地位も名誉も失った男はロマンチシズムに弱い!?

 まだ世間のことをろくに知らない繭ならば、「なんのとりえもないありのままの私を、無条件に愛してくれる王子さまがいた!」みたいな、そんな80年代少女マンガ的な恋愛観を持っていても、まあ仕方ないでしょう。

 でも、立派な大人であるはずの羽村が、ただのリスキーなイケナイ関係を“純愛”と信じ込み、そのためにモラルも社会生活も捨てた状態を“本当の自分”と呼ぶなんて、イタイタしいにもほどがあります。

 つまり羽村は、いや、男という生き物は、社会的な地位や立場によって、自分の存在価値やプライドをかろうじてつなぎとめているんですね。 だから、ひとたびそれが崩れてしまうと、簡単に理性のタガがはずれて社会性を失い、犯罪に走ったりひきこもったり、すべてを投げうって幼稚な“純愛”に溺れたりする。

 『高校教師』は、男性こそロマンチシズムの落とし穴にあっさり落ちる、か弱い生き物なのだということを、私たちに教えてくれたのです。

10年で通用しなくなった『高校教師』の純愛    

By naosuke ii
©By naosuke ii

 ……と、ここまでさんざん羽村と繭の純愛劇を茶化し、ディスってしまいましたが、これは現在の感覚で見るから言えることです。

 大切なのは、当時はこの物語がロマンティックなファンタジーとして成り立っていたという事実。
お互いの存在価値を賭けて、ただ無条件に愛し愛されるような関係が、理想の純愛とされていた時代のドラマだということです。


 教師と生徒というタブーでリスキーな関係を乗り越え、それでも愛し合うからこそ、2人の純愛はより強いものとして、視聴者を熱狂させました。

 ところが、それから10年後、藤木直人と上戸彩のコンビで2003年に制作された『高校教師』の続編は、さしたるヒットもせず“コケた”と言われる結果となってしまいました。

 この10年のあいだに何があったのか、答えははっきりしています。
私たちは、“恋愛”が人生の意味や価値、幸せをすべて賭けるほどのものではない、ということを知ってしまったのではないでしょうか。

恋愛は人生を豊かに楽しむための“お祭り”でしかない!?

恋愛は素晴らしい。 恋愛は誰もがしなければならない。 恋愛はほかのどんな人間関係よりもかけがえのないものだ。
 そう言って、自分をありのまま受け入れてくれるたった一人との出会いの素晴らしさを、往年の恋愛ドラマは繰り返し繰り返し描いてきました。

 バブルが崩壊して、企業のネームバリューや経済力といった価値観がアテにならなくなってしまったことも、背景にあるかもしれません。
私たちは、失った自我のよりどころとして、恋愛・純愛を新たな“絶対的価値観”とするようになったわけです。

 でも、実際の恋愛って、もっといいかげんで、不確かで、流動的なもの。
恋愛を自我のよりどころにしてしまうと、負う傷が深すぎることに私たちは徐々に気付いていきました。


 今では、恋愛は人生をちょっと豊かに、楽しくしてくれる“お祭り”のようなもの。
教師と生徒の恋愛や、浮気、不倫といった“禁断の愛”も、そんなお祭りを盛り上げてくれる“ギミック”のひとつでしかなくなりましたよね。

 恋愛は恋愛として楽しんだうえで、最終的には堅実で安定した人と結婚すればいいじゃない?

 そんな時代にあって、勢いで突っ走って心中してしまうような重たくてイタい恋愛に、いったい誰が共感するでしょうか?

 そう考えると、愛の神聖さを詩的に語った野島伸司ドラマが、2000年代に入って急速に力を失っていった理由もわかるような気がします。
『高校教師』は、純愛がまだ有効だった時代の、“古き良き寓話”だったんですね。

Text:Fukusuke Fukuda

ライタープロフィール

福田フクスケ
フリーライター。“くすぶり男子”の視点から恋愛やジェンダー、セックスなどを考察。

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