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  • 2012.08.19

芸術家の恋愛模様を名画とともに楽しんで! 恋愛美術図録 マリー・ローランサン編

結婚、離婚…そして晩年は同性を愛した先駆的女性芸術家の恋

マリー・ローランサンは、20世紀前半に活動した女性画家・彫刻家です。

捨てられた女よりもっと哀れなのは/よるべない女です/よるべない女よりももっと哀 れなのは/追われた女です/追われた女よりももっと哀れなのは死んだ女です/死んだ女 よりもっと哀れなのは/忘れられた女です」 (『鎮静剤』の一部 堀口大學訳)
こう綴った彼女はフランスの美しい時代に活躍しました。

若手詩人と恋に落ち、愛を芸術で昇華させる日々

Nurture By rickyqi
©Marie Laurencin austinevan

 ローランサンの母・ポーリーヌは年上の妻子ある代議士と付き合って、未婚のまま娘ローランサンを産みました。ローランサンは読書や絵を描くのが好きで、いつしか画家になるのを夢見るように。

 パリのモンマルトルにある「洗濯船」という名の芸術家たちの住まいであり、共同アトリエに絵をもちこんだのが、画家としての第一歩でした。ここにはピカソやブラック、ヴァン・ドンゲンなど貧しいが才能に溢れた天才たちが住んでおり、多くの芸術家たちも集まってきていました。その一人が詩人のアポリネールだったのです。
 ピカソにマリー・ローランサンを紹介されたアポリネール。ほっそりとして澄んだ水晶のような肌に、透き通った瞳をもつ、彼女はまさにアポリネールの理想そのものでした。

 ローランサンは22歳、新鋭の画家と前衛派の詩人とが激しい恋に落ちるのに時間はかかりませんでした。1908年にローランサン母子がシャペル大通りからラ・フォンテーヌ街三十二番地 に引っ越すと、アポリネールもすぐ近くに移り住んだ。アポリネールは毎日のように恋人に詩を贈り、ローランサンは彼をモデルに絵を描きました。

 ローランサンはその才能と美貌で男たちを夢中にさせていたと言われています。アポリネールはそんな彼女を他の画家や詩人、画商に次々と紹介して画壇のプリンセスにまで押し上げていきました。

『モナ・リザ』盗難事件が引き金となった詩人との別れ

 ローランサンは芸術家たちに霊感を与える女神として祝福され、才能豊かな二人の恋は永遠に続くかに思われたが、激しい個性と 鋭い感性のぶつかり合いは亀裂を生みました。
 そんな折り、二人の別離を決定づける出来事が起きます。
 1911年、アポリネールがルーヴル美術館で起きた『モナ・リザ』盗難事件の共犯容疑で逮捕されてしまうのです。疑いは晴れましたたが、この事件でアポリネールとロ-ランサンの二人の関係はぎくしゃくしたものになり、ついに5年間の燃えるような愛は終焉を迎えます。

ミラボー橋の下をセーヌが流れ/われらの恋が流れる──
アポリネールはローランサンと別れた後、彼女への愛をこう綴りました。その詩『ミラボー橋』は後に、第二次世界大戦後復興期のパリ市民の愛唱歌となりました。

 その後アポリネ-ルは38歳でこの世を去るが、その日までローランサンが描いた『アポリネールとその友人たち』とともに暮らしました

最愛の母の死と、ドイツ貴族との辛い結婚生活     

Nurture By rickyqi
©Marie Laurencin - Elégie ou Anciennes sirènes (1927)i

 やがて彼女は、淡い紅色、青、緑の色調を使って、狐、鳥、馬などを添景として配し、 女性の姿をとらえる幻想的な画風を確立していきます。画家として軌道にのっていた30歳のとき、最愛の母を亡くしました。
私を愛してくれなかったママ。でも、私は大好きでした
 母の死の孤独に耐えきれずロ-ランサンは31歳のときに結婚をします。彼女が相手に選んだのは、ドイツ貴族で自称画家のオットー・フォン・ヴェッチェンでした。私生児だった彼女が、公爵夫人の肩書きが欲しかったためともいわれています。

 結婚式は1914年6月28日に行われましたが、その6日後にドイツはフランスに宣戦布告をして、第一次世界大戦が勃発する。ドイツ国籍になっていた彼女は、故郷フランスを追われることになります。
 1914年9月、ロ-ランサンはスペインのマドリ-ドに亡命。待っていたものは、アポリネールとは正反対のガサツで、女性の心を解さない夫との地獄の日々でした。

 ローランサンの失意を慰めたのは、パリに住む人気デザイナー、ポール・ポワレの妹のニコル・ グルーとの文通でした。  ニコルは生涯の親友になりましたが、この交流はローランサンの同性愛に対する目覚めるきっかけに。その後も、ローランサンはレズビアン的な傾向に走り、何人もの女性の恋人をもっています。肉体の快楽よりも、官能的な愛撫や接触を好んだそう。

戦場にいるかつての恋人アポリネールとの文通

 その一方で、彼女はフランス将校として戦場にいるかつての恋人、アポリネールのことが頭から離れませんでした
 1915年から6年にかけて、アポリネ-ルは『追われる美女』『見つかった捲毛』『 鳩の拒絶』『露営の火』『くやんでいるグラナダ娘たち』など新しい作品が出るたびにローランサンのところに送ってきた。彼女もかかさず、返事を書きました。
 1916年、ベリ-=オ=バック近郊、ビュットの森の塹壕で、アポリネールは重症を負います。この知らせもロ-ランサンに届きました。
 1918年5月2日、アポリネ-ルは美しい赤毛の女、ジャクリ-ヌ・コルブと結婚してしまうのです。ローランサンは自分も結婚している身でありながら、この報せに打撃を受けました。ロ-ランサンは「アポリネールは永遠に自分のものだ」と信じていたのです。ジャクリ-ヌは永遠に自分のライバルになりました。

 その年の11月10日、ロ-ランサンは2通の電報を受け取ります。アポリネールが危篤という報せと死亡したという報せ。スペイン風邪による肺充血でした。
 ロ-ランサンにとって、スペインでの5年 間は、哀しく辛い日々でした。ローランサンは、ようやくフランス永住の許可を得て、1921年、美の都パリに戻ってきます。  翌年、39歳のときに、夫とは正式に離婚

情愛の相手を養女に迎え入れ、かつて愛した人を想った晩年

 ローランサンも老いから女の魅力も失われてきます。かつて、もてはやされた作品も時代遅れといわれるように……。
 そんな中、家政婦でかつ情愛の相手であった 21歳年下のシュザンヌ・モローは嫉妬心からマリーを束縛。友人や他の愛人をマリーから遠ざけさせます。捨てられることを恐れたマリーは言われるまま
 1954年には彼女を正式に養女にむかえます。そして、1956年、彼女に見取られて72歳の時に心臓発作で死去。

 亡骸は純白のドレスに包まれ、手には赤いバラ、遺言によって胸には若き日にアポリネールから送られた 手紙の束が載せられていました

 繊細な詩人は才能ある画家をもっとも理解し、深く愛したのでしょう。ともに私生児で哀しみもわかちあってきたのかもしれません。
 しかし、自分の生き方を貫いたローランサンは他者を苦しめ、自分をも傷つけていったのかもしれません。
 お互いに真実の愛を求め続けながら、孤独に陥っていったのでしょうか。

Text/AM編集部

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