「自称クリエイター」迫害の代償に承認欲求を肥大化させた人たち

何者かになりたい私たちを分析する新連載「承認欲求に喰われる心」。
第1回≪「クリエイティブになりたい」と自撮りをアップする私たち≫
第2回≪「私の前世は○○」からSNSへ!ワンタップで何者かになれる私たち≫
も併せてどうぞ。

「クリエイティブ」の響きはいいけれど……。

トイアンナ 承認欲求 クリエイティブ darkday.

クリエイティブな仕事に憧れますか? アイドルからコピーライター、あるいは編集者まで「自分でなければつくれない価値」を世に生み出した快感は病みつきになるものです。私自身、「自分が書く内容には意味がある」と感じられなければ、ライターをしていません。承認欲求がゼロというのも、つまらないものです。

しかし、承認欲求に火を灯し、「クリエイティブな人」として生きるには、大きな困難が待ち受けています。

有名な例では太宰治を考えてみてください。教科書に必ず掲載され「彼でなくては残せない作品」を数多く出した人間でありながら、4回の自殺未遂を図りました。

しかも1回は彼女だけを死なせて自分は生き残り、最後の自殺も浮気相手との心中です。正直私が太宰治の家族だったら、とっくに絶縁しているでしょう。クラスメイトだったら無視していたかもしれません。

クリエイティブな人は得てして「人としてありえない」行動を取った結果、迫害された歴史を持つものです。

「迫害」された人が承認欲求を抱きやすい

こんな風に、クリエイティブな人は、非常識な行動から迫害されることが少なくありません。
しかしここで指摘しておきたいのは「クリエイティブな人は迫害されてきたことが多い」からといって「迫害された人がクリエイティブな仕事に就くと約束されたわけではない」点です。

小学生などは「こいつ変だぞ」と思っただけで、クラスで無視するなど安易なイジメに走りがち。しかしそこで育つのは「私はこんなところで終わる人間じゃない」という承認欲求だけで、クリエイティビティは生まれません。
辛い過去をエサにして承認欲求だけを育ててしまった人が、自分は天才クリエイターだ、アーティストだと名乗る「勘違いさん」になりやすいのです。

せっかく辛い過去を乗り越えて生きてきたのに、その埋め合わせを「自分でしかできないクリエイティブな仕事」に求めてさ迷う姿を見てしまうと、胸が痛くなります。

しかし本当にクリエイティブな職業で活躍する人と、「勘違いさん」にはどういう差があるのでしょうか?

その答えは、努力の総量です。