感動ポルノは誰が生む?スポーツにもチャリティにも涙を求める私たち

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 感動ポルノという言葉を最近よく聞きます。
毎年、夏の終わりに某テレビ局で大掛かりなチャリティーイベントがあるので、
皆、そこで自分の中にある愛や正しさを考えるキッカケになっているからだと思います。

 ちなみに私、この大掛かりなチャリティーイベントについて、そんなに悪いイベントだとは思っていません。
偽善的だという意見もありますが、障害者支援を行っている団体に、確実にお金が渡っていますし、結果としてそれで助かっている人や団体がいるのは事実だからです。

 大体ボランティア活動に異常なまでの潔癖を求める意味が私にはわかりません。手弁当ばかりでは長く続きません。
テレビ局が利益を上げて、スポンサーもタレントもイメージアップが出来て、タレントにはギャラも出る。更に莫大な寄付金額が集められるのです。

 つまり、損する人が居ません。
視聴者も感動する人は感動しているでしょうし、仕組みとしては完璧に近い感じです。
だから、40年近くも続いてるのだと思います。
ただ、私はあまり感動したいと思わないので、ここ20年くらいこの番組を見たことがありません。

感動を欲し続ける人々

 この夏はオリンピックの中継や報道も感動を煽るものが多くて、私は食傷気味でした。
まるで感動しないのは非国民というような感動ファシズム。
そう、感動ポルノは障害者の方々だけを対象としたものでは無かったのです。

 もしかしたら、あの五輪選手も、あの野球選手も、あの甲子園球児も、あのサッカー選手も、みんなみんな、感動を求めている人達の感動ポルノスターなのかもしれません。

 みんな心を煽られたり、心を動かされたいのです。
それがエロティックなアプローチならポルノになりますが、それがスポーティーなアプローチなら感動のドキュメンタリーになります。
テレビはタダでそれを提供してくれます(NHK除く)。

 でも私にはとても危ういことのように思えます。
チャリティーイベントや選手そのものが悪いということではなく、
あまりにも安易に感動を求め過ぎてはいないか?
感動に麻痺させられたら何か大きく情報を操作されていても気付かないのではないか?
感動を消費することに満足して洞察や考察をする習慣をなくしていないか?

 少しずつそういうことに気が付いた人が、テレビから離れ始めてもいます。
そして個と個が繋がるネットやSNSに流れていきましたが、ネットやSNSもそれはそれで都合の良い現実だけを選んで見るようになってしまい、偏った思想のネトウヨやネトサヨなどを生んでいます。