私が誰かもわからなくなった母

私が33歳の時、拒食症によって母は入院しました。身長160センチで体重は37キロ。数年ぶりに母を見て「バタリアンのオバンバみたい…!」と息を飲んだ私。
母の手帳には、日々の体重グラフと「目指せ35キロ♡」の文字が。「痩せたら美しくなれる」という十代の少女のままの発想だったのでしょう。

母とは絶縁状態でしたが「死にかけの老人を見捨てるのは人として仁義に反する」と思い、娘としてじゃなく人として、私は病院に通いました。
ICUで管に繋がれた母は意識障害を起こしていて、私が誰かもわからない状態でした。そんな幼児のような母を見て「今の母なら愛せる」と思った。今の母なら私を傷つけないから。

ちなみに母は私を「中曽根さん」と呼んでいて、私も「やあレーガン大統領、ロンと呼んでいいかな?」とそれらしく返答。 2か月の入院中、夫は親身に支えてくれて「この夫と結婚してよかった」と実感しました。また女友達も支えて励ましてくれました。介護にまつわる体験談やアドバイスをくれる年上の女友達の存在は特にありがたかった。
母には見舞いにくる友達は1人もいませんでした。

その後、母の容体は回復、口を開けばワガママと悪口の通常運行に戻った。
ある日、病室に入ると、しわしわのミイラのような母が、男性医師に「誰か男の人を紹介して」「お医者さんと結婚したいの」と訴えていました。
それが母に会った最期になりました。

退院から半年後、12月の真冬の朝。1人暮らしの部屋で母の遺体が発見されました。死因は心臓発作。
こういう場合は変死扱いになるらしく、現場には警察の捜査官が来ていました。私も動揺していて、死体の確認や現場の立ち合いは夫にしてもらった。

その時、夫は『24』のジャンパーを着ており、背中には『連邦捜査官』のロゴが。
「しまった、こんな服着てくるんじゃなかった…」と呟く夫に「こんな状況でも笑わせてくれる夫がいてありがたい」と感謝した私。

検死等も済んだ後、母の部屋を訪ねました。部屋には壁一面、20代の女子が着るような服がかかっていて、ホラー感が漂っていた。
59歳になっても「若く美しい女」の幻想にしがみつき、「若く美しい女が金持ちの男に選ばれ、人に憧れられる生活を与えられる」という、全てが受け身な幻想を捨てられなかった母。

母の葬儀はごくわずかな親族のみで行いました。誰も泣いてないお葬式の後、弟とこんな会話を交わしました。
「僕たち、血も涙もない兄弟なのかな?『東京タワー』のリリー・フランキーみたいな人もいるのに」
「羨ましいよね、お母さんが死んであんなに悲しめて。でもしょうがないよ、もらってないものは返せないから」

正直、私は母が死んでホッとしました。と言うと「親不孝者!人でなし!」と四方八方から石が飛んでくる。「もう二度と火山の噴火に怯えずにすむ」という思いは、経験した人間にしかわからないから。
親が死んで悲しめない子供が一番悲しいのに。

私は母に愛されたかったし、母を愛したかった。でもどうしても無理で、母のことが嫌いだった。親だろうが誰だろうが、人には嫌いな人を嫌う権利がある。
母を嫌いだったからこそ、私は彼女のようにならずにすんだ。

私はスペック関係なく夫を選び、格差婚と呼ばれたりしたけど、お陰で幸せになれた。生まれて初めて安心感を感じて、毒親の呪いから解放された。
他人や世間がどう思おうが関係なく「私はこの夫が好き、この夫と生きていきたい」と思える相手を選んだよかった、心からそう言えます。

もともとの家族がダメでも、人はみずからパートナーを選んで、新しい家族を作れる。
母のお葬式で「もし今自分が不幸だったら、死んでも母への恨みが消えなかっただろう」と思いました。
でも私には愛する夫や大切な友達がいて「色々あったけど、今が幸せだからまあいっか」と思えた。
そして母の棺を「お疲れさん!もし生まれ変わりがあるなら、次は幸せになってね」と見送りました。

でも本当は来世でリベンジを狙うのではなく、今生で幸せになってほしかった。いいお母さんじゃなくてよかったから、幸せでいてほしかった。あんな死に方してほしくなかった。
その思いから「男に選ばれるのを人生の目標にするのはやめよう」と書くのです。

世の女性がみずから人生の選択をして、幸せになりますように…(合掌)

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Text/アルテイシア

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