わかるとわかれる<3>

「わかるとわかれる<1><2>」では、
私たちは相手のことや起こっていることについて
「わからない」から悩み続ける、
「わかる」ことができれば、問題から離れられる、
ということをお話ししてきましたね。

私は読者の方から
「本を読んで、自分の恋愛がうまくいかなかった理由がわかってスッキリした」
というような嬉しいメールをよくいただきますが、それもまさにそういうこと。

恋愛で、不安の渦に巻き込まれていたのが、
相手の気持ちや二人の恋愛がどうなっているのかがわかることで、
問題から離れて、冷静になれるのです。

彼に対してこだわり、ずっと考えている方が、
一瞬、「くっついていて近い」感じがしませんか?

しかし実際は、彼のこと、そして二人の恋愛を理解した、
つまりある意味で、彼と近くなり一体化したときに、
あんなに頭にこびりついていた、
彼のこと、その恋愛のことが自分から少し離れて、
いくらか余裕が生まれるのです。

また、私のヤングあるのホテル事件でも、
いわゆる悪いことをする人と自分は変わりないんなんだなあ、とわかったとき、
あの事件や関わった人に対する執着がなくなりました。
(この事件については「私を激変させた、ある事件<1>」からどうぞ)

あれだけ「許さん!」「懲らしめてやる!」と思っていたのに、
心から笑って手放せたのです。

さらに、「暴れ男をおとなしくさせる一言」で書いたように、
映画「どですかでん」で、村のみんなが暴れている男を怖がって近づけなかったのは、
みんな彼のことが全然わからなかったからです。
わからない、手に負えない存在だったからです。

「わからない=不安」ですから。

しかし、長老が全然ビビらずに暴れ男をふにゃふにゃにすることができたのは、
彼の性格、彼の気持ちがよくわかっていたからです。

長老自身も若い頃、同じように荒くれたことがあるのかもしれません。

長老にとって、暴れ男は「わからないこと」ではなくて、
「わかっていること」だった。

だからこそ、巻き込まれずに、渦の外側にいて、
余裕と愛をもって暴れ男を大人しくさせることができたのです。

わからないうちは、モヤモヤし続けている。
でも、腑に落ちることで、ようやくその問題から解放されて、
なにをしたらいいのかが見えるのです。

問題から離れるということは、
問題になっている相手とも離れることになることが多いです。

たとえば、好きな人、恋人、親、友達などですね。

この話は、モーニングページを書いてきた人なら、
結構わかるのではないかなあ?

モニペを書いていると、人と別れる、離れるということが多く起こります。

「ああ、私は彼に怒っているんじゃなくて、本当は彼に否定されて悲しいんだ」
「ああ、私は彼女のいいなりになることで、自分の人生の責任転嫁をしていたんだ」

など、自分の本心が「わかる」と、問題から抜け出せることがよくあります。

また、

「ああ、彼は私とちゃんとつきあう気なんてないんだ」
「ああ、彼女はただ私を自分の気晴らしの道具にしているだけなんだ」

など、相手のことがわかって、すっと腑に落ちることがあります。

この「腑に落ちる」感覚は、体験した人ならわかるはず。
いっぺんに楽になるのです。
問題なんてはじめからなかった、という感覚すら味わえます。

成長して、一つ高いところに来た、ということなのかな。

そうすると、相手を、ただ「ああ、この人はこうなんだな」と思えるようになります。

「この人は」というところがミソ。

相手は自分ではないのです。

自分と他人の「違い」がわかることが何よりも大きなことです。

不思議なことに、不安で混乱しているときのほうが、
「間違った一体感」を持っていることが多いです。

暴力夫におびえながらも、しがみついていた妻のように。

しかし、それは「一体感」ではなくて、
「巻き込まれて」「もつれて」「依存して」いるだけです。

巻き込まれ、もつれ、依存しているその相手と、起こっている出来事を理解できると、
もつれがほどけ、巻き込まれから抜け出ることができ、
グチャグチャ、ドロドロだった気持ちが、「あっさり」してしまいます。

「わかる」と「あっさり」「スッキリ」しちゃうんですね。

「グチャグチャ、ドロドロ」が間違った一体感で、
「あっさり」「スッキリ」が、離れるということです。
そして、「あっさり」「スッキリ」は、ほんとの一体感でもあります。

それは、依存が自立になったという合図。

自分の気分で「依存」か「自立」かがわかるのです。

もうちょい続きます~。